こころの冷えた時代

こんな時代にこんな記事を書いてしまう私もあれだけど。

現代と言うのは心の冷えた時代で未来は更に心が冷えるだろう。

そもそも心とは愛だとか自我だとかそう言った旧世代の概念で

現代にはそぐわないのかも知れない。

 

脳の機能や精神の働きが解明化され、

その機能が細分化されると共に人間はより合理的にシステマチックにしか

行動しなくなる。

 

コスパだのタイパだの言うのはそれを象徴する現代造語だろう。

と言ってみたところでもはやこの時代は昔に戻る訳でも

心や愛や自我を取り戻すわけでもない。

 

科学に寄る解明はむしろ解明する、と言うよりは

そう思い込む事により、よりそうなって行く風にしか作用しないのでは?

今ではそう思っている。

 

そんな概念は実は無いんだよ、と思う事で

実際にその概念は無くなって行くのである。

 

実は自我なんて無いんだよ

実は愛なんて無いんだよ

実は心なんて無いんだよ

 

そう言う風に科学者に言われる事で実際にそうなって行くのだ。

これは言葉の力だろう。

 

現代社会が生み出す言葉の力で人間は変わって行くのだ。

実際問題、コスパだのタイパだの言う概念が無かった頃は

そんなもん気にも掛けなかった。

 

エンデの言う灰色の男達の様なふんわりとした存在がやって来てこう言う

 

それは効率が悪いですよ。

それは合理的ではない。

それは無駄です。

 

あなたは損をしている。だから御覧なさい。

あの人々の様に成功していないでしょう?

 

私はかのSNSなどはしない。

どうもああ言う事をやってもうまく行かない人間だからである。

ブログだって本当はうまく行っていないのだからやるべきでは無いのだ。

 

そもそも生まれて来た星自体が良くなかった気さえする。

時代と言ってもいいかも知れないが

 

思うに私なら、どの時代のどの場所に生まれても同じような事を言っているだろう。

地球なら。

 

だので来世と言うものが有るなら

地球と言う一種の地獄を離れ、別の星に住みたいと思う訳である。

こんなしみったれた星に住んでたら、どんどん心がさもしくなる。

猿よりも良くないものに退化するのだ。

 

そう思うが。