社会批判の有用性

社会批判の有用性となると

これはやはりストレス解消以外には無いと思う訳である。

そしてその実効性となると邪魔者の排除である。

 

と、ここだけ見ればまるで下衆の趣味そのものであるが、

その通り社会現象として現れている。

 

例えばタンスの角に小指をぶつけてやり場のない怒りを

ネットで社会批判に向ける。

そして、有用性を得るためには社会的弱者を標的にする

と言うわけである。吐き気がする。

 

例えばそれは反何とか叩きであり、少数派であり、

大抵が反体制派を標的とする。

 

ここでは体制派が後ろ盾であり、批判を正当化するための後光である。

 

そして真っ当な社会を良くしようとする提案は悉く無視されるわけである。

嫌なら出て行けと言うわけだ。

これがこの国の社会批判の現状である。

 

だから延々と改革も革命も何も起こらない。

起こるはずが無い。

 

社会批判と言うのはストレス解消の一環であり、

目的は社会の是正では無く、弱者叩きだからである。

延々とこれである。

 

こんなもんで社会が良くなるはずが無い。

動機は日常のストレスで目的は弱者叩き、これで社会が良くなるなら

どんな犯罪も正当化されるだろう。

 

この国の社会批判とはつまり、ガス抜きであり

娯楽であり、コスプレである。

 

子供のイジメの根本は大人社会の模倣に過ぎない。

こうして弱者叩きは正当化され継承されると言うわけだ。

 

こんな国で本当の社会批判をしようものなら

社会そのものからパージされるに決まっている。

やつらは自己肯定をし続ける。

その後ろ盾は体制であり、むしろこの社会の空気そのものである。

 

そんな中で筆者が絶望と諦念とニヒリズムとの沼に

どっぷりと浸かるのは致し方ないと思う訳なのである。

 

この解決不能な負のスパイラルに対する唯一の対処法は

社会の全てを無に帰す天変地異のみと思われる。

 

来たれ裁きの日。